善勝寺だより 第77号平成23年12月21日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その46 「われらは、ここにあって死ぬは ずのものである」と覚悟をしよう。
──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。(中村元 訳)
前回の「5」と、「6」は対(双)になっていますが、5の「怨みに報いるに怨みを以てしてはならない」という有名な言葉があるので6はあまり解説されてないようです。しかし、ここはとても大切なところです。
私たちだれもが、生あるもの必ず滅することを知っています。しかし、自分自身が死ぬ身であることは深く考えません。考えないようにしているといった方が良いかもしれません。
「どうせ死ぬんだから」とか「私が死んだらね」などと軽く口にしますが、切実に自分の死ぬことを考えている人はまれです。遠い国のおとぎ話のようにまるで縁のないひとごとのように、考えがちで、自分だけは死なないような感じがしているのが実情だと思います。
生命への執着の強さというものは私たちに否定することはできません。
親鸞聖人に唯円房(ゆいえんぼう)というお弟子さんがありました。あるとき唯円房は師に、「私はちっとも極楽の世界へ生まれたくありません。それどころか、この娑婆世界にいつまでも生きながらえていたいと思います。これは私の迷いでしょうか」とたずねました。親鸞聖人は、「唯円房よ、私も同じ心にてありけり」と答えられたそうです。
しかし釈尊は「我らここ死の領域に近し」と言われました。「山の中に逃げようと、海の中に逃げようと、空に飛び逃げようと、この地下にもぐりこもうと、この地上に生みつけられたる者、誰が死をまぬかれんや」と法句経にあります。
怨みの心、争いの心が起こったとき、仏教では死を念ぜよ、死ぬのだと観ぜよと教えます。死を知り、死を念じ、死を正しく念ずる者こそ、悟りに達せる者、すなわち「ほとけ」を念ずるものだ、「念死念仏」と教えます。
正しくおのれの死を見つめたときに、はじめて悟りに対する人間の目覚めがあります。死を正見(しようけん)する者だけが正しい宗教を知ることができる。
死を自覚することは元気がなくなること、元気の喪失でなくして、1分間をも活動したいという、生命の尊重と申しますか、まことに真に生きることの尊重であります。従って、この死を見つめることは、決して生命の否定どころか、真に正しく生きること、すなわち、人生理解を深めるものであります。この念死の体験こそ真の仏教徒となる入り口であり、争いを鎮める唯一の道であるとこの句は教えています。
今回は友松圓諦師の『法句経講義』を参考にしてまとめました。
(続く)
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