善勝寺だより 第89号平成26年12月19日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その16まこと なすべきを
なおざりにし
なすべからざるをなし
伎(たわむれ)におぼれ
しかも なすところ
放逸(なおざり)なるもの
かかるひとびとに
悪習(まよい)は増張(いやまさ)る
(292 友松圓諦師訳)
今回は、以前にも参照しました、スリランカ仏教会長老であるスマナサーラ師の「原訳法句経」から引用することと致しました。
『私達は、みななにかの「依存症」にかかっています。今、依存症でなくても、次の瞬間に依存症にかかることもあります。いわば依存症のキャリア(保菌者)なのです。依存するものは、酒、賭け事、パチンコ、おしゃべり、テレビ、スマホなど限りなくあります。酒や賭け事に依存するのはよくない、ということはだれにでもわかっています。けれども、私達はグルメやブランド、健康食品といったものに依存して生活しているかもしれません。インターネットに依存し、つぎからつぎへと調べたりして、何時間も費やしもします。
依存すると、本来なすべきことを後回しにしてしまいます。「今、何をするべきか」がわからなくなるのです。普通の人なら、朝起きたら顔を洗って食事をします。しかし、アルコール依存症の人は、朝起きるとすぐに酒に手がいきます。賭け事に依存している人は、子供の学費さえも賭け事に使ってしまいます。炎天下の車中に子供を放置したままパチンコに熱中して、子供を死なせてしまった親がいました。なんと愚かなことでしょうか。
なにに依存するかが問題なのではありません。依存すること自体がよくないのです。たしかに仏教を学ぶことや、ボランティア活動に励むことはいいことです。しかし、それに依存すれば、やはり自分を見失っていくのです。
私(スマナサーラ師)のところに学びに来る人のなかで、よく「命がけで仏教を学びます。仏教に命をかけます」という人がいます。けれども、そういう人で修行が進んだ人はいません。「命がけ」とか「必死でやります」という人は、そのことにしがみついているわけです。ものごとは真剣すぎるのもよくないし、いい加減でもよくない。だから、中道が大切なのです。』
つねに 善(よ)くつとめて
身につつしみあり
なすべからざることに
遠ざかり
つねになすべきを行い
思い深く さとれるもの
悪習(まよい)は かかる人に消えん
(293 圓諦師訳)
禅寺では、「放逸なることなかれ」などと、「放逸」という言葉をよく使います。放逸とは、「溺れること」「過度に依存すること」を意味し、「心が酔っていて、自分が何をしているのかわからない状態」をいい、その反対の「不放逸」とは、「そのときそのときに、なにをするかわかっている」ことです。
『今、何をやるべきかをよくわかっていて、それをきちんとやること、それが不放逸です。不放逸であることで心は育っていくのです。』
〈つづく〉
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