善勝寺だより 第86号gou号平成26年3月7日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その13 精進(はげみ)こそ不死の道
いそしみはげむ者は
死することなく
放逸(おこたり)にふける者は
生命(いのち)ありとも
すでに死せるにひとし
21(友松圓諦訳)
昨年の仏教講演会の折頂いた、講師「青山俊董師」のご本裏表紙に、『精進こそ不死の道 俊董』とサインしてありました。この言葉はどこに出てくるのかなと思いつつ読んでいましたら、上の句に出会うことができました。
精進(しようじん)は「はげみ」、放逸(ほういつ)は「おこたり」とルビがあります。
以下、前回同様に俊董師の著書より、抜粋・参照させて頂きました。
{食べて寝て、なんとなく日を暮らして一生を終わる。そんな生き方なら犬や猫だってやっている。せっかく人間としての命をいただいたのだから、人間らしい生き方をしたい。一日生きたら一日生きただけの甲斐ある生き方をしたい。それができたときはじめて、「生き得たり」と言えるのだという。それができたとき、死しても死なない永遠の命を生き得たことになるのであり、それができない人は生きながらにして死骸と化しているのと同じだというのである。}
一滴一滴の雫(しずく)が大きな石に穴をあけるように、一途に努力すれば成し遂げられないことはない。また、火をおこすに、途中で怠ると熱は冷め、火を得ることはできない。このように、怠りなく相続することを精進という。
(遺教経)
しかし、何でも怠りなく一生懸命努力すれば「精進」と言うかといえば、そうではありません。スリや泥棒が腕を磨くといった不法なことはもとより、私利私欲のための努力は、精進とはいいません。
今自分のおかれた立場で、最善のこと、なすべきことを怠りなく続けることが「精進」です。
仏教童話に次のような話があります。
「山火事がおきた。鳥も獣も一目散に逃げた。その中で只一羽の小鳥がその山火事を消そうとして、必死になって自分の羽を谷川の水に浸しては火の上へ行ってその雫を払った。くたびれもうけで何の役にも立たないと、他の鳥たちはその愚を笑ったが、その小鳥は一途にやり続けた。小鳥にできることはそれしかなかったから。天の神はこの小鳥の心に感じ、大雨を降らせて火を消したという。」
私たち一人ひとりのいのちには限りがあります。大きな目標を達するには、時間も必要でしょう。何度も何度も失敗をするでしょう。病気やけがもつきものです。結果を見ぬまま命尽きることもあります。
俊董師の他の本には、「百不当一老」と書かれてありました。これは道元禅師の言葉で、弓矢のたとえをもって、修行のあり方を示された言葉だと知りました。
弓を始めてから今まで、矢が的に当たることはなかったが、101回目にしてようやく的に当てることができた。今の一当はこれまでの百不当の力である。と言った意味であります。
これは、最後の一当がすばらしいことで、それまでの百不当は価値のないものと思いがちですが、そうではありません。百不当の一つひとつの価値は、最後の一当の価値と同じであるということです。
たとえ、千不当・万不当であっても精進することが大切であるという教えであります。
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