善勝寺だより 第92号平成27年9月9日発行発行責任者 明見弘道 (2ページ) |
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東光山ミニ法話
『法句経(ダンマパダ)』その19村の中に
森の中に
はた海に
はた陸(おか)に
阿羅漢(こころあるもの)
住みとどまらんに
なべてみな楽土(らくど)なり
友松圓諦訳(98)
中村元氏のパーリ語からの現代語訳は、「村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい」となっています。
お釈迦様が実際に旅をされた地域は、北インドの内陸だけですので、ジャングルとか日本のような深い森ではなく、林というイメージの方が近いようです。また、海そのものではなく、海辺、川辺といった低い土地、或いは、台地と言ったところを指しているようです。
阿羅漢は、インド語のアラハント或いはアルハトの音写で、修行を完成した人のことを表し、真人とか聖者と訳されています。
聖者は、どこに住もうがどこに行こうが、また環境に左右されずに楽土(浄土)であり、楽土以外の處はないということになります。
かつて道元禅師は、道を求めて宋(今の中国)に渡り修行されました。
阿育王山(あいくおうざん)と言う寺の典座(てんぞ)(台所で修行僧たちの食事を作る役)に、「いいお年をして典座などという煩わしい仕事などなさらずに、もっと座禅をしたり語録を読んだりなさったらどうですか」と言ったところ、「ハハハ、日本からおいでになった若いお坊さん、あなたはまだ修行ということがどういうことか、真の教えというものがどういうものか、よくおわかりになっていないようですな」と大笑いされてしまいました。その頃の道元禅師は、禅とか仏法というものは特別のもので、台所仕事や掃除はつまらないことと思っておられたのでした。
その後、禅師が修行されて得られた答えは、「一二三四五」どれもこれもどうでもよいこと、つまらないこと、おろそかにしてよいものなど、一つもないということだったのです。
道元禅師が帰国されて言われたのは、「眼横鼻直(がんのうびちよく)」。つまり目は横に鼻は直(たて)についていることを知っただけで、仏法などと言う特別のものは何もなかった。だから空手で帰ってきた、と言われたのです。
しかしこれは、確かなものを求め得たからこそ言える言葉であります。
チルチルミチルの青い鳥ではありませんが、徹底的に探し求めてみないことには、「他に向かって探すものではなかった」ことを、「すでに授かっていたことに気づくだけのこと」であったということを知ることはできないのであります。
阿羅漢はもう何も求めるものはありません。生きざまそのものが仏法です。
どこに居ても、何をしていても仏法から離れることはありません。
そのところを、禅語で、
歩歩是道場(ほほこれどうじょう) 或いは
随處(ずいしよ)に主(しゅ)と作(な)れば
立處皆眞(りつしょみなしん)なり
などと言います。
(本文の一部は、青山俊董老師の著書「法の華鬘抄」を参照しました)
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