善勝寺だより 第49号 平成17年1月10日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
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東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』その17辱なくも此の法を 一たび耳にふるる時、
賛嘆随喜する人は、 福を得ること限りなし。
勿体ないことには、この座禅の教えについて、一度でも耳にして、その素晴らしさを讃え、これに従う人は、幸せを手にすること計り知れないものがあるに違いない。(西村恵信師訳)
「辱ない」は忝ないとも書きますが、近頃余り耳にしなくなりました。恐れ多い、勿体ない、有り難いことに、と言う意味に使います。此の法とは、摩訶衍の禅定、凡夫がこのまま仏になれる道、人間が平等に救われる道、真実の自由を得られる道を指します。
こんな有り難い教えがまたとあろうかと、ちょっと話を聞いただけで、素直に仏法のありがたさを受け入れ、賛嘆し、結構だ結構だと、随喜できるような純真な人は、もうそれだけで充分功徳があるんだ、幸福なんだと白隠禅師はおっしゃっています。
ここに「随喜」という言葉がありますが、これが大切な言葉です。どういうわけか理由は分からないが、有り難くて有り難くてしかたがない、涙が出て止まらないような、宗教的感激を表す言葉として用いられます。
人間的に完成された人のそばにいると、知らず知らず自分も悟りを開いたような明るい気分になり、清浄な神域に入ると、おのずから心も引き締まってすがすがしい気分になる。また荘厳な雰囲気で、尊い仏像を拝んでいると、もうそのままお浄土へ迎えられたような法悦を感ずる。すべて随喜であります。
この様な宗教的感激ばかりでなく、他人の善行を素直に認めて賛嘆できる心も随喜です。法要に列席することも随喜と言います。さらに広い意味で、嬉しいにつけ悲しいにつけ、常に相手の気持ちになって、喜びを分かち、悲しみを共にすることが、随喜です。
ところが私どもには、人の幸福を見ると何か喜べない妬みの心がわき、人の不幸を見ると、ひそかにほほえみを感ずるような、さもしい心が有りはしませんでしょうか。人の悪いことは口を極めて非難し、人のよいことは何とかけなしてみたいような、いやしい心がありはしませんでしょうか。口では美しい言葉で褒めながら、或いはいかにも悲しげな声を出し、涙さえ浮かべて同情しながら、腹の中ではペロリと舌を出しているような、はしたない心を持ってはいないでしょうか。それらは、随喜とはほど遠い、恥ずかしい心であります。
また、「話し合いで解決できないことはない」などとよく言われます。暴力や戦争という手段に訴えなくても、お互いによく話し合い、理解し合えば、どんな問題でも平和的に解決できるということで、知性ある人間の社会は、そうでなくてはならないと思います。
しかし、双方が耳をふさいで、ただ自分の言いたいことを話し合うだけでは何もなりません。互いに相手の言うことを聞くことが大切で、話し合いではなく、むしろ聞き合いでなくてはならないと思います。
我見と面子を捨て、相手の立場を理解しようとする広い柔軟心を随喜の心と言います。
この随喜の心は、一人ひとりを幸福に導き、世界平和への道しるべとなることでしょう。
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