善勝寺だより 第125号令和4年12月20日発行 |
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鈴木大拙の禅とは何か その2
前回、宗教の要素として必要なもののうち、制度・儀式・知性・道徳を取り上げて説明しましたが、今回は宗教の本体を形成する五つめとして「宗教経験」を取り上げます。
宗教の最も重要なる要素がこの宗教経験です。仏教というものを信ずる上においては釈尊の人格と釈尊の経験(体験)、これが大変重要な事柄です。
釈尊の一代においてこの重大な事実が成道(じょうどう)ということです。ことに禅宗では「成道会」というものを12月8日に記念するほどに重大なこととなっています。
今から2,500年前の仏の教えというものは、仏が成道という自分の経験を土台にして、それを釈尊がその時代の人の知恵によって説法したまでのものなのです。ただしこの教えの背景には、いつも釈尊の経験というものがあります。教えというものは、経験と道理というものが、お互いに結びつけられているものとして考えられるので、教えが単に教えるということであってはいけない。それを文字通りにとってはいけないのです。
仏典には、「如是我聞(によぜがもん)」(私は釈尊からこのように聞きました)となっているのではありますが、文学上の一つの形式であり、その形式が必ずしもその通りの事実であったということではありません。そこで仏教というものを構成している要素がもう一つあります。それは釈尊自身の人格と体験と、教え(説法)というもので仏教が構成されているというのではなく、釈尊以後の仏教者の生活体験というものがはいって来なくてはならないことを認めることです。ここに至って仏教というものも初めて生きて来ます。これを釈尊の人格と体験と教えだけにしてしまうと、仏教というものは、あるいは化石してしまうかも知れない。そうすると仏教は生きているということになりません。
仏教を信ずる人の心に生きてくることが不可能になります。
仏教というものが発生して、ここに2,500年という今日まで伝わってきた。その生命不断なりしその原因が何であるかといえば、そこに生命があるからであります。その生命がどこから来るかといえば、仏教徒の体験とその思想というものがそれに加わって働いているからです。人が自分は仏を信ずるというならば、その人の信ずるというその心がやはり仏の教えの上に加わってゆき、自分だけに入用なものを創造する、そしてそのものが仏教という一つの流れに加わってゆく、これが大事なことであると思う。
仏は原始仏教成立させましたが、これだけでは水が十分に流れない。そこで、後生人が時々にその流れの中に自分のものを加えて、従来の偉大さを持続すると同時にさらに何かまた勢いを加えて行く、こういうことにならなくてはなりません。
これには僅(わず)かに寄与したものもあり、あるいは大いに寄与したものもあるかも知れない。たとえばインドにおいては竜樹(りゆうじゆ)菩薩、天親(てんじん)菩薩というような偉大なる知識者になると、もとの流れに一段盛んなる流勢をつけ、中国においては達摩大師・智者大師・善導大師というような人々が、仏教のためにその勢いをつけました。
日本では、法然聖人・親鸞聖人・日蓮聖人、また、禅宗では白隠和尚というような人であります。いずれもこの流れの中に偉大なる自分の体験というものを注ぎ込んだ人々です。
また、汚れるを澄まし、停頓(ていとん)せるをば流通せしめ、そうしたその流勢を盛んならしめたところの人々であります。
禅とは何か」(鈴木大拙著)の要約 |
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