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善勝寺だより

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善勝寺だより 第118号

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令和4年3月11日発行
発行責任者 明見弘道
(2ページ)
善勝寺だより第118号

東光山ミニ法話



『舎利礼文』 その

  舎利礼文(しゃりらいもん) (全文)

一心頂礼(いつしんちょうらい) 万徳円満(まんとくえんまん) 釈迦如来(しゃかにょらい)
身心舎利(しんじんしゃり) 本地法身(ほんじほっしん) 法界塔婆(ほっかいとうば)
我等礼敬(がとうらいきよう) 為我現身(いがげんしん) 入我我入(にゅうががにゆう)
仏加持故(ぶつがじこ) 我証菩提(がしょうぼだい) 以仏神力(いぶつじんりき)
利益衆生(りやくしゅうじよう) 発菩提心(はつぼだいしん) 修菩薩行(しゅうぼさつぎよう)
同入円寂(どうにゅうえんじゃく) 平等大智(びょうどうだいち) 今将頂礼(こんしょうちょうらい)
 

【意訳】 (後半)
  仏の大いなるお心によって、私たちは悟りを得ることができ、仏の素晴らしい力によって、世の人々はすべて幸せへと導かれます。菩提心(ぼだいしん)を起こし、未来の仏としてなすべきことをなし、お釈迦さまと同じ円満なる安らぎの境地に入りましょう。誰にでも等しく具(そな)わる仏の智慧を、今まさに礼拝いたします。


発菩提心(はつぼだいしん)
     (菩提心を起こしましょう)
 仏様と一つになって生きることが、私たち仏教徒のあるべき姿であり、そこへ向かうために不可欠なのが「発菩提心」、すなわち菩提心を起こすことです。
 菩提心には二面あります。一つはどこまでも自己を磨いていく向上心(自利心)、もう一つは人様のために役立ちたいという心(利他心)です。この二つはコインの裏表のようなもので、どちらか一方が欠けていてはいけません。
 鎌倉・円覚寺の管長をお務めになられた朝比奈宗源(あさひなそうげん)老師の若かりし頃に、こんな出来事がありました。
 『浄智寺(鎌倉)にいたとき大雪の降ったことがある。京都の竹はしなやかだが、関東の竹は雪折れする。「ああ初めて竹の折れる音を聞いた」なんて、わしは呑(のん)気(き)に友達と漢詩なぞ作り合っていた。そこへ師匠の堯道(ぎようどう)老師が雪を蹴(け)ってお帰りになった。「どうした竹は」「はい、大(だい)分(ぶ)雪折れしております」「ばか、ふるうんだ」。わしは吃驚(びつくり)して飛び出すと、夢中で竹藪の竹をふるいはじめた。何しろ貧乏寺の浄智寺にとって、裏山の竹は当寺貴重な財産だったからなあ。
 ところがふと気づくと、深い雪の中で足を取られて、わしがよろけたり、ころげたりして偶然腰や肩が触れた竹も、そのはずみに葉先の雪がこぼれると、さ、さ、さ、さ、と弾力的に頭をもたげはじめ、やがてさあーっと美(み)事(ごと)に全身の雪をふるい落として、自分の力ですっくと立つのだ。
 わしはその時自分は将来宗教家として、無意識に触れた人にも、その人の迷いや悩みを払い落とす力となって、喜んでもらえるような、そういう人になりたいものだと、願を立てた。縁ある限り、人を明るく、より豊かにしたいものだと、心に決めた。』

朝比奈宗源『人はみな仏である』春秋社

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今にも折れそうな竹に向かって一心に駆け出す姿に、どこまでも自己を磨きたいという心と、他のために役立ちたいという心の両面を見ることができます。
 「無意識に触れた人にも、喜んでもらえるような人間になりたい」というお気持ちがありがたいですね。まさに自利と利他がぴたっと一つになった菩提心のお手本だと思います。  (続く)
     転法社「仏さまと一つになるお経」より

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