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善勝寺だより

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善勝寺だより 第58号

平成19年3月8日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)

東光山ミニ法話

 『般若心経』 その2

 

 觀自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空

前回も書きましたが、般若心経にも如是我聞「私はこのように聞いています。」から始まる大本と言われるものがあります。これによりますと、世尊(お釈迦様のこと)が王舎城ラージャグリハ(私がインドを旅した頃はラジギールと言っていましたがボンベイをムンバイと言うようになったように近年当地読みに改められた)の郊外にある霊鷲山に、大勢の修行者や信者衆とおいでの時、シャーリプトラ(心経には舎利子と漢訳されていますが智慧第一といわれたお釈迦様の十大弟子の一人、舎利弗のこと)がお尋ねになりました。

もし立派な若者が、般若波羅密多(彼岸に到ること・智慧の完成)を実践したいというなら、どのように学べばいいと、答えてあげればいいでしょう」と。

たまたまこの時、世尊は深い禅定に入っておられましたので、「観自在菩薩」が世尊に代わって答えられました。

通常読まれている般若心経流布本は、ここから始まりますので、何でいきなり観音様がでてくるのか設定が分からないのですが、こういう経緯だったのです。また、観音様のお話が終わった後、お釈迦様が深い禅定から醒めて立ち上がり、「善哉善哉、とても素晴らしかった」といって観音様を賞賛されます。「本当にそのように、いま観音様が示されたように、般若波羅密多は実践すべきなのです。」とお釈迦様がその内容を保証されたのです。

観自在菩薩と観世音菩薩とは同じ仏様で、アヴァローキテーシュヴァラが原語です。禅宗でよく読まれるお経で、「大悲呪」というのがありますが、ここでは、ボリョキチーシフラヤーと読んでいます。

この菩薩様、般若教典を訳された、玄奘三蔵は「観自在」、観音経を訳された鳩摩羅什は「観世音」と訳されたのです。仏とは智慧と慈悲だと言われるのですが、智慧を主体とするときは「観自在」、慈悲を主体とするときは「観世音」と考えたらよいかと思います。一般的には観音様といった方が分かりやすいので、ここでは観音様と言うことにします。

この観音様、お地蔵様と共に日本で一番親しみがあり、広く信仰されている仏様です。しかし歴史上実在の人物としてのお釈迦様以外、阿弥陀如来、薬師如来、弥勒菩薩などのこれらの仏、菩薩様は実在の人でないことはご存じかと思います。ではどうしてここに観音様が登場するかと言うことになります。

それは、大乗仏教の特徴でもあるのですが、これらの仏菩薩を登場させることによって、より信仰が大衆に広まると同時に、より深まるという利点があります。

故山田無文老師の言葉によると、「人間と仏との間にあって、仲介の労をとられる方が観音菩薩でありましょう。言うならば、観音様は仏性そのものであり、お互いが生まれながらにして持っておる、尊厳なる普遍的な人格そのものであります。

その普遍的な人格である観音様が、釈尊に代わってこの普遍的な真理である『般若心経』を説かれておるのであります。そして、お互いは生まれながらにして、この普遍的な人格を具えておるのですから、実は説く人も観音様ならば、説かれるお互いもともに観音様だったということになりましょう。

心の優しい人のことを観音様のようだとか、菩薩様のようだと言いますが、いかにも人間に近い存在のようであります。このように完成された仏でなく、やがては仏になられる方として、菩薩というものを置いた大乗仏教は、出家し、厳しい戒律を守る特殊な人々のためだけの宗教を脱皮させ、全ての人々が救われる世界宗教となったのです。

その観音様が智慧第一の舎利弗にお話しされました。

「私(観音様のこと)が般若波羅密多のための(彼岸に至るための)実践をしている時、五蘊は皆『空』なのだと分かりました。」五蘊とは、私たちの心身を構成する五つの集まり、色・受・想・行・識を意味します。

〈つづく〉

(玄侑宗久著現代語訳般若心経・故山 田無文老師の著書などを参考引用)

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