善勝寺だより 第54号 平成18年3月10日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
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あなたはどう思われますか
姑さんと一緒の墓には入りたくないと言う方が多くあることは前から耳にしていましたが、このところ善勝寺の檀家の内でもそういうことが、数件ありました。そこで、読売新聞(平成3年6月16日、日曜版)の切り抜きを探し出して紹介することとしました。
つぎの文章は、鴻巣の仏教講演会にも講師として来ていただこともある、宗教評論家の「ひろさちや」さんが書かれたものです。
まんだら人生論
ひろ さちや生前、折り合いの悪かったお姑さんの遺骨を墓に納めたとき、ほっとすると同時に、自分もこの墓に入るのかと想像して、ぞっとした。姑と同じ墓に入らぬ算段はできないか?ある女性から、そう問われた。
姑と同じ墓に入らぬ方法は簡単だ。生きている間に、彼女が自分の墓を別につくっておけばよいのである。
けれども、私はそんなやり方を好かない。そのやり方は仏教的でないと思う。
仏教では、われわれが死ねば、ほとけの国に迎えられると説く。ほとけの国は対立や争いのない平和な世界である。ある意味ではみんなほとけになるのである。
彼女と姑は、現世では、いがみ合って暮らした。不幸なことであったが、それが現世の縁なのである。現世では、お互いにそのようにしか生きられなかったのである。
だが、ほとけの国では、みんなほとけさまであって、仲良く暮らせる。現世では、彼女も姑も、われわれみんなが一種の仮面をつけて生きているのだ。
しかし、ほとけの国では、そんな仮面は不要だ。仮面をはずしてあるがままのほとけの姿で付き合うことができる。
ほとけの国に行ったら、わたしたちはお互いに相手の真実の姿、ほとけさまの姿を見ることができるのだ。
現在の仮面の姿をそのままほとけの国に持ち込むような、愚かなことをしてはいけない。
そして、この考え方は、生きている人間どうしに当てはまる。いまは対立関係にある人も、互いにほとけとなって付き合うことができる。そう考えたほうが、わたしは人間関係が楽しくなると思うのだが……。
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