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善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第53号
平成18年1月20日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)

東光山ミニ法話

 『白隠禅師座禅和讃』その21

 

     無念の念を念として
      うたうも舞うも法の声。

 何ものにもこだわらない心を、一瞬一瞬の心とすることによって、歌っているときも、踊っているときも、そのまま真理のまっただなか。(西村恵信師訳)

 人は考える葦だと言われます。まことにそのとおりであります。考えるところに人間の価値はあり、文明の道は開け、文化の花も開きます。科学も哲学も文学も人間が考えることから生まれたものでありましょう。

 一方、仏教ではよく、「考えるな、分別するな、計らいを捨てよ、馬鹿になれ」などと教えますが、これは何も「全く考えることをするな」という意味ではなく、「いらざることを考えるな」ということであります。不登校・引きこもりといった問題も、精神の浪費、神経の過労、考えの過ぎが元にあるようです。

現代社会はあまりにも多くの問題を抱えており、考えるなと言っても、考えすぎざるを得ないのです。しかもその上に、あり得べからざる空想をほしいままにし、必要以上にくよくよ考えて頭脳をつかうならば、それはまったく精神の浪費であります。そこからはなんらの結論も出てきません。結論のない迷路であります。その恐ろしい迷路に落ち込むと、ついにはみずから立つ自信さえ失ってしまうのであります。

「明日のことを思いわずらうことなかれ、一日の憂いは一日にて足れり」と示されている如く、わたくしどもは、精神の浪費を整理し、正しい考え方、健全な考え方をしなければならないと思います。そうした頭脳の整理をしていくことを座禅というのであります。

柳澤桂子という、有能な科学者で今は難病で苦しい闘病生活を余儀なくされている方が書かれた、『生きて死ぬ智慧』心訳「般若心経」の始めに

ひとはなぜ苦しむのでしょう
 ほんとうは
 野の花のように
 私たちも生きられるのです

とあります。

また唐代の名僧趙州和尚に雲水が「達磨大師はインドから中国へ、何しに来られましたか。その意志は何でしたか」(祖師西来意)と尋ねたところ「庭前の柏の樹じゃ」と答えたと言うことです。

何のことか分からないのが禅問答ですが、「本来の仏法が中国の方にうまく伝えられるだろうか、病気はしないだろうか、いやわしが行かねば」などとごたごたした分別があったり、意識の分裂、すなわち何らか苦悩があったとしたら、祖師ではありません。もし意志があったとするなら、それは「無念の念」であり、無意志の意志であったというこです。この微妙な論理を矛盾なしに解決しているものが、自然の草木であります。趙州和尚が「庭前の柏樹子」と答えたヒントはその当たりにあります。

また、柳沢女史のいう「野の花のように私たちも生きられるのです」も、無念の念をヒントにしていただければ、何となく理解いただけるのではないでしょうか。

「赤子のような心にならなければ、天国には入れない」という言葉もありますが、赤子のような心、草木の心、すなわち無念の念を念としているならば、一挙手一投足、何を行うのも、そのまま仏様の姿であり、仏様の行いであります。白隠禅師はそこのところを『無念の念を念として、うたうも舞うも法の声』とうたわれたのであります。

(故山田無文老師の著書参照)
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