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善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第45号
平成16年1月6日発行
発行責任者 明 見 弘 道
(2ページ)

東光山ミニ法話

 『白隠禅師座禅和讃』その13

 

     布施や持戒の諸波羅蜜、 念仏懺悔修行等、 其品多き諸善行、

今回は、ようやく六波羅密の最後、禅定・智慧のところに進みます。

『禅定』という言葉には「定」という字が付いていますから、何か一定の状態で定まっているように考えられるかも知れませんが、実は常にフレッシュに、驚きと喜びと感激をもって、一つ一つの物事に対して、見事に転換しつつ、対応して行く力が持続するという意味です。赤ん坊や小さな子供は、今腹を立てて泣いていても、次の瞬間、嬉しいことがあれば、ニコッと笑うことができる。常に一瞬一瞬、出会うものに対して、新鮮に驚きと喜びをもって対応しています。だから彼らは、いつもあんなに活き活きとしていることができる。それが私たちの本来の心であったはずです。

人間本来備わっていたこういう能力が、常に保たれていることを「定まっている」というのです。腹を立てたことがずっと続く、落ち込んだところがずっと続く、という意味での「定まる」ではありません。

鏡と写真フィルムとにたとえてみれば、よく解ります。鏡はどの方角に向け変えても物事をすべて受け入れて、新鮮にハッキリと写し出します。これは自らの本質を変えず、そのまま写し出すという力が定まって、続いているからです。

これに比べて写真フィルムは一つの情景を写した瞬間、自分の本質を変えてしまっています。そのフィルムで別なものを写すと、二重写し三重写しになってしまいます。

永代供養の善勝寺私たちの心は鏡のように常に新鮮であったはずです。それがいつの間にか、物心ついて以来の悪い習慣のために、まるでフィルムのようになってしまっています。腹を立てたというフィルムの上に次の出来事を写しますから、まさに二重写しとなります。さらに次の出来事に接すれば、二重写しの心、つまりさまざまの感情によって汚染されたフィルムでそれを写し出しますから、今度は三重写しとなり、物事が明快であろうはずがありません。

明るく澄んだ鏡の状態が『禅定』としますと、こうした汚物にまみれ、輝きを失ってしまったフィルムの状態は『昏散』と呼ばれます。

「禅」というのは梵語の「ジャーナ」の音訳であり、「定」は意味内容です。音訳と意訳を一緒にして「禅定」という言葉は作られていますが、私たちが生まれながらにして持っている、素晴らしい感性・知性というものが、常に持続してゆく状態を『禅定』といっているのであり、そこから働き出す力を『智慧』と言います。人の言ったことや書いたことを、覚えているのが智慧ではありません。鏡のような裸の心から、常に新鮮な感激と喜びを持って、湧き出してくる言葉や行動、反応、それが真の『智慧』です。

先入観と知識とでごった煮になった頭の中で、「昏散」を繰り返しているような人から出てくる発想や発言、行動は、まさに「愚か」であり、「智慧」の正反対のもの、それが「愚痴」です。

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