善勝寺だより 第43号 平成15年6月30日発行 発行責任者 明 見 弘 道 |
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東光山ミニ法話
『白隠禅師座禅和讃』 その11布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等、
其品多き諸善行、皆この中に帰するなり。
他に施しをしたり、自分に厳しく戒を守ったりする仏教の実践(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜)。あるいは念仏を唱えたり、自分の行いを懺悔したり、身をもって仏道の修行をするなど、種類さまざまな諸々の仏道の実践も、結局はこの禅定(座禅)というもののなかで成就されるのである。(西村恵信師訳)
前回『布施』のところだけで終わってしまいましたのでその先を続けます。
『持戒』、原始仏教では、男のお坊さんには250、尼さんには500もの戒律があるといわれております。一般に持戒といいますと、多くの戒律を頑張って守り続けてゆくことのように聞こえるかも知れませんが、本質をよく見れば、持戒とは「人の邪魔をしないこと」であることがわかってきます。
お釈迦様在世当時、コーサラ国の国王とそのお后は、「今朝私たちは、この世で一番愛しいのは自分であるという結論に達しましたが、この考えは如何なものでしょうか」と、お釈迦様に尋ねました。すると「我々の心は、極めて自由に世界を飛び回ることができるけれども、どこをどう探し回ってみても、我々は自分より愛しいものを見つけることはできない」と二人の結論に賛成をされ、続けて次のように言われました。「だから、おのれの愛しさを知るものは、他の人もまた、その人自身がもっとも愛しいのだということを知って、傷つけてはいけない。害してはいけない」と、これは『不害の説法』といいます。
どこの自治体でも行っているかと思いますが、境地区も町内会総出で、道ばたのカン拾いなど行っています。
このボランティアでカンを拾うのは、『布施』ですが、日頃ゴミを捨てないようにする、こちらが『持戒』です。普段は平気でゴミをまき散らしておきながら、ある一日だけゴミ拾いをしてボランティアといえるでしょうか。
親から何万もの小遣いをせびって旅行に行って、1,000円か2,000円のおみやげを買って親に渡して、親孝行したと言えるでしょうか。
自分は人のため家族のために尽くしていると思っていても、よくよく考えてみると、それ以上に、自分も家族からまた多くの人から、支えられていることがわかります。持戒と布施は表裏一体で持戒の精神があってこその布施といえます。
もう一つ、釈尊が「他を害してはいけない」と言われた言葉の中には、すべての人々の根底には、生まれながらにして、自らが自らを守り支え、生き抜いてゆく力が備わっているという認識であり、これが仏教の「悟り」にほかなりません。
このことから「あの人は助けてあげなければ駄目な人だ」また、「あの国は援助しなければ成り立っていかない」などと、簡単に思い込んでしまうことは間違いです。どんなに貧困でも、どんなに苦しくても彼ら自身が自らを律してゆくだけの力が、また問題を乗り越える力があると信じて見つめること、そして、相手から要請があったときのみ必要な手伝いをする。これが真の布施であり、一方的な価値観で援助することは、相手を害することにもつながります。真の布施は「相手の邪魔をしないこと、相手を害さないこと」という「持戒」の精神が基本になります。
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