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善勝寺だより

善勝寺だより 善勝寺だより 第35号
平成13年6月27日発行
発行責任者 明 見 弘 道
  (2ページ)

東光山ミニ法話

『白隠禅師座禅和讃』 その3

  水と氷の如くにて、
     水を離れて氷なく、
         衆生の外に佛なし。

氷は固まり、その形を簡単に変えようとはしません。従って、たとえば三角の氷がしっくりと収まるためには、全く同じ大きさと形を持った容器がなければなりません。

実際、「自分はこういう人間だ。こういう性質だ」と決め込んで、氷のように凝結してしまえば、その人がしっくりと心地よく過ごすためには、当人が思い込んでいる状態に寸分違わず一致するような状態がなければ、どうにもならないでしょう。

しかし、それはほとんど不可能なことであり、たとえそうした状態が見つかったとしても、いつまでそれが続くか、非常に不安定であり、常にその状態が崩壊する危険と危惧に脅かされることになります。

そもそも、こうした氷の状態で適合する容器を探すこと自体に無理があるのであって、こういうやり方では、不満と不幸が続くことは火を見るより明らかです。

問題を解決するには、発想を逆転する必要があります。すなわち、凍った状態に合致する容器を探すよりも、みずからもとの水にかえれば、どんな形の容器であっても、その中にしっくりと適合して、くつろぐことができるわけです。自分というものを、あれだとかこれだとか決め込むことをやめること。その決め込みを破って、もっと自由に、「本来、自分には、どんなものにでも対応する力がある」という、この事実に、今こそ目覚めてもらいたい。と白隠禅師は訴えておられるのです。永代供養の善勝寺

そういわれても固く凍った、氷の塊はなかなか簡単には溶けません、自分で自分の虜になり、自分で自分を決めてしまっているからです。

しかし、本当の自分というのは、そんな凍った状態のものでなくて、自由自在に、山となり海となり、あるいは泉となり池となり、水蒸気となり雨となり、雪となり氷となることのできるものではないのか。それこそが、自分本来の、『いのち』の姿であったはずです。

ですから、水を離れて氷が存在しないように、この『仏』という大いなる『いのち』なしに、衆生の存在はあり得ない。

私たちは『仏』というと人間を越えた、一つの欠点もない完全な存在を考えがちです、ですから「あなたは仏です」と言われてもそのまま「はいそうです」とは思えません。しかし、すべての存在は、それ自体で満ち足りた存在です。外見的に不完全のように見えたとしても、本来備わっている『いのち』そのものは完全に充ち満ちたものであって、欠けたところは全くないのです。

(故盛永宗興老師の著書より)
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