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善勝寺だより

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善勝寺だより 第99号

平成29年6月26日発行
発行責任者 明見弘道
(2ページ)
善勝寺だより第95号

東光山ミニ法話


  『魂のふるさと』山田無文老師著より

今日一日に感謝する


臨済禅師のことを記した「臨済録」に「途中に在(あ)って家舎(かしや)を離れず」という言葉があります。結論から言えば、途中がそのまま終点だということであります。

 人生というものは、永遠に途中だと思います。科学がいくら研究をしても、もうこれで終点だということがないと同じく、私どもの人生の理想も、いつまでやってみても、もうこれでよいという終点は、なかろうと思うのであります。
 わたくしどもの欲求にも終点がなく、また、みんなとともに幸福になるということにも、もうこれでよいという終点はないと思うのです。家舎とはわが家で、心の最も安定する平和な場所であります。つまり終点であります。
 そこで途中に在って家舎を離れずとは、人生は永遠に途中であるが、しかも毎日が終点であるということでありましょう。毎日が終点であって、しかも毎日が途中である。途中と終点と矛盾するようで、矛盾しない、そういう人生観が、私は堅実な人生観でないかと思うのであります。

 よく進歩進歩と申します。進歩ということは、足を前へ進めることでありますが、右の足を前へ進めるときには、左の足はしっかり大地を踏んでいなければなりません。左の足を前へ踏み出すときは、右の足が大地を踏みしめていなければなりません。進歩をするためには、いつも片一方の足は固定して踏みしめていなければなりません。
 ところが、現代人はどうかしますと、進歩進歩といって両足上げてしまいますから、結局安定を欠いて倒壊してしまうと思うのであります。進歩のつもりで、倒れてしまうような人生には、堅実性はないと思うのであります。
 より良き明日を建設するためには、今日が本当に充実されていなければならんと思うのであります。今日をほんとうに充実することが、より良き明日を建設することになるっと思うのであります。

 太閤秀吉は「わしは、関白になろう、太閤になろうというような、大それた考えを持ったことは一度もない。足軽の時は、一生懸image命足軽の仕事をしていただけだ。そうしたら侍になれた。喜んで侍の仕事をしておったら侍大将になれた。そして大名に、そして関白にというように、その時その時の仕事を一生懸命しておったら太閤になれただけだ」こう太閤さんは言っておられたということです。
 この話のとおり、私たちが今日の仕事を充実せずして、より良き明日が建設されるはずはないと思うのであります。今日を感謝せずして、いつの日か喜びの日が参りましょう。
 今日を喜び、今日を感謝することによって、私たちは人生の幸福を本当に満喫することができると思うのであります。  (続く)


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